書くことは受動的
「書く講座」のはじまりは、いつも、ぼくと大谷さんの最大の持ち味ともいえる、歯切れの悪さでもって、こんなことを言葉にしたところでどうなのだ、と思うようなことを、いかにも歯切れ悪く話しはじめる。
ところが、これが毎回ものすごく面白い。コントグループ「シティボーイズ」は、僕達が本当に面白いと思うコントは最初の10分は笑えないんだけど、最初の10分さえ見てくれたら面白くなる。」というようなことを言ってたらしい。(だから、テレビではそういうのはできないのだと。テレビでは数十秒で笑わせられるようなものしかできないのだと。も。)
それに似てるなぁと思う。
書く講座の場合は笑わせるわけではないけれど、自分にとってほんとうに面白いものの最先端を話そうとすれば、どうやったって歯切れが悪くなる。立て板に水、のようにサラサラと言葉が出てくるのは、じぶんにとってとても良く見知った、体の一部みたいなことを話そうとするときだ。
まだ言葉にならない何かを、深い霧の中を進むように進み、もがく中でやっとのことで何かの手応えを感じて、指先をひっかけてたぐり、なんとかそいつの輪郭を確かめる。そうやっていくうちに、いつのまにかいくつかの足場ができて、気づくとその上で自由に遊べるようになる。
実はこれ、書くことに似ている。同じと言ってもいい。そうやって話す人は「書くように話している」。
そう考えると、書くことって積極的に見えて、書かれる内容はすでにぼくらのまえにあって、ぼくらができるのはせいぜいそれを、丁寧に発掘するように取り出すのか、重機を使って大量にあるいは効率よく取り出すのかという違いくらいで、書くことは受動的だ。
なんていう話を3月の書く講座で話して盛り上がっていました。4月は合宿です。まだお二人ほどお席あります。持込文章の枠も空いております。
会場はこんな感じ。宿泊は全員ログハウスとなりました。